京葉会第12回 千住宿と松尾芭蕉の足跡を訪れる

2015年5月13日

日 時 2015年5月13日(水) JR南千住 午後1時集合
参加者 27名
江戸東京歴史散歩の会との合同イベント

chibamet12-1今回は「江戸東京歴史散歩の会」との合同イベントで
同会御用達のボランティアガイド2名が案内してくれ
ました。
JR南千住改札口で出発前に本日の行程概略の説明
を受けました。
今頃としては珍しい台風7号が接近するので天候が
心配でしたが、駆け足で早朝に関東の東海上を通過
したために、快晴に恵まれ絶好の散歩日和でした。



chibamet12-2最初に南千住駅前にある芭蕉・矢立の像にご挨拶。

今日のルートは南千住駅からコツ通りを経て日光
街道沿いに北千住まで松尾芭蕉の足跡を偲びなが
ら歩きます。

本編を纏めるについて、南千住コツ通り商店会によ
るパンフレット「南千住 コツ通り商店会巡りのコツ」
及び当日配布された資料を参照しました。



chibamet12-3小塚原回向院・延命寺(こづかっぱらえこういん・えんめいじ)
小塚原回向院は浄土宗の寺院で、小塚原刑場の刑死者などを供養するた
め1667年に創建されたお寺です。
吉田松陰など安政の大獄関係者、桜田門外の変の関係者、鼠小僧など
有名人の墓があり、入り口には杉田玄白が刑死者の解剖に立ち会ったと
する記念碑もありました。
延命寺
もとは小塚原回向院の敷地内で刑死者や行き倒れの人などを弔うため
1741年に建立されたが、1895年常磐線敷設のため現在の場所に移転。
1982年小塚原回向院から小塚原刑場跡地である現在地に延命寺として
独立開山した。
左の画像は延命地蔵。石造の大きなお地蔵さんで、寺院建立と同時に造ら
れ、通称首切地蔵と呼ばれ、高さは約3メートル60センチ。寄石造りで27
個の石から出来ているのだそうです。

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回向院の史跡区画の奥まった一角には吉田松陰の墓がありました。  ⇒
幕末の国事に奔走して倒れた志士や、解体新書の翻訳に際して実際に
解剖に立ち会って確認した杉田玄白の真摯な姿勢など、先人のことが走
馬灯のように心を駆け抜けます。





chibamet12-5素戔雄神社(すさのおじんじゃ)
スサノオノミコト(素戔雄命)とコトシロヌシミコト(事代主
命)の2神を祭神としている。
795年に役小角の弟子・黒珍が、この地の塚上にあった奇岩を
霊場として日夜礼拝すると二柱の神が降臨したこから創建されたと
されます。
左はその奇岩とか。


chibamet12-6また、境内には1820年に建碑された芭蕉の句などがありました。

南千住・三ノ輪・三河島・町屋の鎮守で「天王様」と呼ばれています。





chibamet12-7熊野神社(左画像)
千住大橋の南詰までくると、熊野神社があります。
1050年に創建とされる古社。千住大橋を荒川に架橋
する際、普請奉行の伊奈備前守忠次が熊野神社に祈
願し、完成時にはお礼として残材で社殿を修理したと
いう。大橋が架け替えられるごとにここが祈願所となり
その度に残材が寄進されて社殿の修理や建て替えが
行われるようになったという。





chibamet12-8千住大橋
最初の橋が架けられたのは両国橋より60年も
前の1594年のことで、仙台藩伊達政宗から
抗材が奉献されたのだそうです。初代の関東
郡代・伊奈備前守が普請奉行となりましたが、
かなりの難工事だったようで、熊野権現に断食
祈願までしたと伝えられています。





奥の細道矢立始めの碑

chibamet12-9千住大橋を北に渡ると大橋公園には矢立の碑と奥の
細道の路程図があり、芭蕉の足取りが説明されてい
ました。
芭蕉が「千住と云う所にて船をあがり」奥の細道の旅
に出たのが1689年のこと。
有名な矢立の初句は
行春や 鳥啼魚の 目は泪

旅程表で日付を追って行くと、とても常人技とは思えな
いハードさが分かります。



chibamet12-10橋戸稲荷神社
千住大橋北詰から少し歩くと千住の船着き場、橋戸町
の鎮守社・橋戸稲荷神社です。
出迎えてくれた狛犬はここでは狐で、しかも後足を高
く跳ね上げた姿になっていました。chibamet12-11
本殿内扉に描かれた伊豆長八
の鏝絵が有名です。
「黒狐」「母子狐」の一対で、普段は
扉を閉めているので実物は見られませんが、
拝殿にはその写真が掲げられています。
右画像は「母子狐」の写真。





やっちゃ場跡
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江戸時代には、青果、穀物、川魚の問屋があったそう
ですが、明治以降は青果を専門に扱うようになったと
いう。市場では現在と異なり、それぞれの問屋が一軒
毎に店先でセリを行った。その時のセリの掛け声が
「やっちゃ、やっちゃ」からこう呼ばれるようになったら
しいのです。昭和16年の戦時統制強化により、中央
卸売市場に吸収・統合されてしまいました。



chibamet12-13やっちゃ場跡の一帯では保存会の努力で左のような看板が随所
に掲げられていて往時を思い起こすことができました。



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chibamet12-15高札場(上の画像)
千住仲町商店街入り口の交差点あたりに、かって日光
街道の一里塚と千住宿の高札場があり、宿場が開設
された当時は、ここが千住宿の江戸寄りの入口です。

問屋場・貫目改所跡(左の画像)
問屋場は宿場の事務一切を仕切った中枢機関。ここ
千住宿の問屋場には、宿場を代表する「問屋役」2人
と補佐する「年寄」4人、他に「長付」など数人が常時
詰めていたらしい。
貫目改所は江戸幕府が街道往来の荷物の重量を検
査するため設置した機関(馬の酷使防止?)。


chibamet12-16森鴎外旧居跡
現在、足立税務事務所が建つ場所に、かって橘井堂
という医院があり、森鴎外が父母と共に暮らしていた。
橘井堂は鴎外の父、森静雄が開業していた医院。










chibamet12-17千住本陣跡
大名が参勤交代などで宿泊する場所を本陣と呼びました。現在の千住
3丁目付近にあり、今は路地裏にその当時を物語った説明版があるの
みですが、ここで面白いものを発見しました。
往時街道は防衛上の理由等で真直ぐ交差させず、互い違いにしていた
名残がここでは見られました(右画像参照)。
それにしても、狭い道路だったのですね。





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千住絵馬堂
左の画像がそうです。下町に今も残る唯一の絵馬屋として、新聞やTVでも取り上げられたことがあります。
千住絵馬は経木に胡粉を塗り、その上に泥絵具で図柄を描く経木絵馬と呼ばれるもので、奉納先や願い事
によって図柄の種類が定まっている。黒馬は雨乞い、白馬は雨止み、地蔵は子育て、鶏は夜泣き封じ、座
牛は学芸上達といったぐあいです。
ここでちょっと筆者は遊びました。ガラス戸にうつっているのが私でした。絵馬堂の向かい側の民家も千住宿
を彷彿させる佇まい(上右側の画像)ですね。

chibamet12-20今回散歩の最終地は名倉医院でした。
名倉医院は江戸時代から続く接骨の名医とされてい
ますが、この長屋門は徳川13代将軍家定が若かり
しとき鷹狩りに訪れた際に、ここで休息するために
建てられたもの。記録によれば家定は1848年と
1852年にここに立ち寄っているから、長屋門は嘉永
初年の建築と思われます。

この後北千住駅前で解散し、有志による懇親会では
理事長を囲んで楽しいひと時を過ごしました。

(富川 正)


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