第34回ふれあいトークサロン『ジョン万次郎の生涯』

2018年5月14日

講師 野武重忠氏

講師 野武重忠氏


〈ジョン万次郎と私の関係〉

本日は、私の曾祖父である皆様ご存知のジョン万次郎(本名 中濱万次郎)についてお話したいと思います。
私は、ジョン万次郎の3人目の妻、「志げ」の曾孫にあたります。
万次郎と志げの間には男の子が2人おりましたが、長男は生まれてすぐ亡くなってしまったので、次男で私の祖父である「秀俊」が長男のようにして育ちます。秀俊は子を6人授かりました。長男は「忠好」といって、これが私の父であります。忠好は生まれてすぐ養子に出されます。何故かといいますと、万次郎と結婚した志げは旧姓を「沼口」といい、福島の方の武家の家の二人姉妹の姉として生まれ、男の子がいなかった。つまりお世継ぎがいなかったので、忠好は沼口姓を継ぐために祖母の実家に養子に出されました。ということで、私は20歳まで「沼口」姓で育ちました。父、忠好は私が生まれてすぐ太平洋戦争で出征しビルマで戦っていましたが、病に倒れ、終戦を待たずに帰国し、千葉の病院で闘病生活を送ります。私の母はこれまた一人娘だったので母の実家も後継ぎがいないわけです。ですから、私は20歳から母の旧姓である「野武」を名乗るようになり、現在に至ります。

〈漂流と渡米〉

次に、万次郎の生い立ちからお話します。
生まれは土佐藩中ノ濱村、現在の高知県土佐清水市中浜という所です。1827年、半農半漁で暮らす漁師の次男として生まれ、父は万次郎が9歳のとき病気で亡くなります。兄も病弱であったため、万次郎が幼い頃から働いて家計を助けていました。
1841年、天保12年の1月、14歳の万次郎は漁船に乗り、5人の乗員の一番年下として鯖鯵漁に出かけました。沖合で操業中、強風で流されてしまいます。5~10日程漂流し、伊豆諸島南端の鳥島に漂着しました。そこで143日間、5ヶ月弱滞在することになります。鳥島は今も昔も無人島ですから自分達で飲み水、食料を調達し生き延びました。主に海藻やアホウ鳥を食料としていたようです。そして遂に、当時捕鯨大国であった米国の捕鯨船ジョン・ハラウンド号が食糧調達で島に立ち寄った際、万次郎達を発見するに至ります。全員救助され、その後ハワイに寄港した際、万次郎を除く4人は下船します。ただ1人万次郎だけは捕鯨船員となってそのまま航海を続けました。何故万次郎だけ船に残ったか。まず船長に気に入られたことがひとつ、それから当時14歳という年齢。今でしたら中学生ですよね。一番好奇心が強い年頃だったというのが最大の理由だと思います。
そこから約1年、海を渡って世界中で捕鯨した後、ウイリアム・ホイットフィールド船長の故郷である、マサチューセッツ州の南の端にあるフェアヘブンという小さな港町に帰港しました。そして船長の自宅に10年弱住まわせてもらうことになります。
余談になりますが、この船長のお屋敷は、今は亡き元聖路加国際病院の院長、日野原重明先生が先頭に立ち、募金を集め、とうとう日野原先生が取得されたのです。そして、屋敷を修復し記念館にして、何とフェアヘブンの町にそのまま寄贈されたのです。何故日野原先生が?ということですが、実は先生はジョン万次郎の崇拝者でして、「日本の若者は今こそ日米友好の礎を築いたジョン万次郎のスピリットを学ぶべきだ。」と常々仰っておられました。お会いした際も、私がジョン万次郎の血を引く者であるということで、とても良く話をしていただきました。

〈米国での生活、帰国〉

米国ではまず小学校に入学したようです。小学校2年か3年生のクラスです。言葉を学ばないとなりませんからね。若いですから直ぐ覚え、上の学校に入っても熱心に勉強したようです。数学や測量、造船技術に至るまで必死に学びました。
そして、渡米して10年程経って一段落した万次郎は、だんだんお母さんに会いたくなってきました。母親は当時としてはすごく長生きだったと思いますが、82歳まで生きました。万次郎の母に会いたい気持ちは日に日に強くなりましたが、当時日本は未だ鎖国中で帰るすべがありません。でも万次郎は絶対に何とかしようと考えました。そこで、まず資金を貯めなければならないと思案した結果、当時西海岸で起きたゴールドラッシュに目を付け、一路カリフォルニアを目指しました。そして数ヶ月金鉱で働き、600ドル貯めました。その資金で当時サンフランシスコから香港まで商船が航行していたのでその船に乗りました。途中寄港したホノルルで手漕ぎボートを買って、それを積んで香港に向かいました。鎖国している日本に直接上陸しても捕まって打ち首になってしまうのがおちです。あれこれ考えた結果、途中で自分のボートに乗り換え琉球、今の沖縄ですね。1851年、琉球に上陸を果たします。今でも万次郎が上陸した沖縄本島の南端、糸満市に「ジョン万ビーチ」という名の浜が残っています。当時の琉球は日本ではなかったものの、薩摩藩の島津氏が実質統治に近いかたちで関わっていたようです。琉球の人々に温かく迎えてもらい当時の藩主島津斉彬氏に会うことになるのですが、今思えばその頃の藩主が島津家で本当に良かったと思います。他の一族だったら万次郎はどうなっていたかわかりません。斉彬氏が開明家で西洋文化にとても興味があったからこそ、万次郎は島津藩で厚遇されたわけですから。
その後、島津氏の命により洋式の造船術や航海術を伝えました。そして迎えに来た土佐藩の役人と共に土佐に向かい、漂流から11年目にして故郷に帰ることができました。

〈帰国後の活躍〉

色々な学問に精通し、特に語学、英語が話せた万次郎は、漁師の身でありながら武士待遇として苗字を与えられ、生まれ故郷の地名を取って中濱万次郎と名乗るに至りました。当時江戸幕府は黒船来航への対応を迫られ、英語に堪能な万次郎は幕府に招聘され、通訳を勤めたりしました。その頃の日本では西洋語はオランダ語しかなく、アメリカ人との通訳にはまずオランダ人が英語をオランダ語に訳し、次にオランダ語を話せる日本人通訳がそれを日本語に訳すという、二重の手間がかかっていました。そんな状況の時に英語が話せる万次郎は当然重宝されるのですが、当時の通訳達の地位を脅かす万次郎はスパイ容疑をかけられ、やっかまれた時期もあったようです。そんな中で、実に多方面にわたり当時の日本に自身の学んできた知識を提供していきました。
例を挙げますと、今のお台場、あそこは大砲の砲台があったから「台場」と呼ばれていました。その大砲台を設計設置したのが万次郎でした。それから伊豆韮山の反射炉も万次郎が江川家の下で作りました。中でも造船技術と語学を伝えたことが、当時の日本にとって一番の貢献であったようです。

〈英会話〉

NHKの大河ドラマ「西郷どん」でも取り上げられていますが、当時の日本人に英語を教えるために万次郎は「英米対話捷径(しょうけい)」という教本を作りました。「捷径」とは近道という意味で、現代風に言うと「英会話の近道」という題になります。
その中で、特に興味深いのが「発音」です。
当時も今も外国語を日本語表記するのにカタカナを用いるのですが、それをそのままカタカナ読みしてもなかなか通じないというのは、誰しも経験があると思います。
万次郎は10年間、生きた英(米)語の中で生活してきたので、その表記自体が限りなく実際の発音に近いのです。ほんの一例ですが紹介します。
例えば、「AMERICA」をカタカナで書くと「アメリカ」となりますが、万次郎はどう書くか、というと、「リカ」。「メ」にアクセントを置きます。「メ」を強く発音して「ア」は発音しません。そして、「AMERICAN」は「メリヶン」何か思い出しませんか?そう、メリケン粉です。
「COLD」は「コールド」ではなく、「コール」この「ル」は「ウ」に近く、そして「ド」は発音しません。「GIRL」は「ゲェル」です。「MAN」は「マン」にあらず。「メァン」。
極めつけは、「今何時?」です。英語でどう言いますか?
「What time is it now?」「ホワット・タイム・イズ・イット・ナウ?」と習いましたよね、昔。でもこのまま言ってもまず通じません。
万次郎はこのように教えています。
「掘った芋いじるな」... (笑い)「ホッタイム イジッナ」と言うと、通じるんですよ、これが。
このように、多くの単語や文例と、その発音の表記が書かれています。
江戸の末期にこのような素晴らしい教本があったのです。
本日は私の曾祖父のお話をさせていただきました。これをきっかけに皆様に少しでも中濱万次郎に興味を持って頂ければ、と思っております。
最後までご清聴ありがとうございました。
                    
マチュリティ107号より転載)

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