第35回ふれあいトークサロン『橋のはなし』

2018年9月25日

JFEエンジニアリング株式会社 社友 嶋田正大

講師 嶋田正大氏

講師 嶋田正大氏



 皆様、「はし」という言葉から何を連想しますか?
「広辞苑」を紐解くと、梯、嘴、階、端、箸、橋と、6つの漢字があてられていました。これらの文字から「はし」という言葉の共通するイメージは、物事の始点、終点。一つの終点から次に新しく始まる始点へと繋ぐもの。そして、その間に位置しているもの、です。本日は、そのうちの「橋」に関しての色々なお話をいたします。


 「橋」の偏は「木」になっていることでもお分かりのように、昔、橋は木で作られていました。漢字ができる前から人々は川や谷を渡るために切り倒した木や倒木を架け渡したり、葛や蔦、藤などを束ねたロープを張り渡し、ぶら下がって渡りました。でも木は腐り易く燃えやすいので、その頃できた橋は残っていません。従って現存する世界最古の木橋は比較的新しく、1333年にできた、スイスのルツェルンという小さな町のロイス川に架かるカペル橋です。木橋の耐久性を高めるために屋根が付いています。1993年の火事で中央部の8割が焼失しましたが翌年修復されました。
 人々は腐食せず強度のある石や鉄、コンクリート等の材料を使い、より丈夫で長持ちし、長い距離でも架けられる橋を工夫し作ってきました。
 現存する世界最古の橋は紀元前にローマで作られた石造のアーチ橋で、現在でも使用されています。ローマ市内を流れるテベレ川に8橋架けられ、うち6橋が現存します。中でもサンタンジェロ橋は10体の天使像が高欄に飾られとても美しく、観光名所になっています。古代ローマ人は帝国の大都市に道路網や水道網を整備し、水道は主に地下を通しましたが、河川や渓谷を越えるために水道橋を架けました。水道橋はローマ近郊だけでなく、フランス、スペイン、トルコなどにも残っています。写真はフランス・プロバンス地方にある最大の水道橋ポン・デュ・ガール橋です。
 日本に石造橋が渡来したのは中国から直接または沖縄経由ルートと、ポルトガル、オランダから長崎の出島経由の2つのルートがありました。日本最古の石造アーチ橋は1502年、那覇の首里城公園内の円鑑池に架けられた天女橋です。
 長崎にも眼鏡橋を始め、沢山の石造アーチ橋が作られてきました。それから熊本には江戸時代に作られたものが340橋も残っています。これは阿蘇山の噴火で加工しやすい岩石に恵まれたことや、雨が多い熊本で流され難い橋を作る技術が育まれたためと思われます。そんな環境下で肥後国に石工の集団が育っていきました。1854年には、水源に乏しい白糸台地に水を送るために通潤橋という水路橋を作りました。これは単一アーチ式水路石橋という特異な構造と、橋よりも高い地域に水を送るため逆サイフォンの原理を利用し見事に高台に用水を押し上げていて、この独自技術が認められ国の重要文化財の指定を受けました。肥後の石工集団で代表的な人物のひとりに藤原林七がいました。
 林七は元々長崎奉行所の武士でしたが、眼鏡橋を見て石橋に興味を持ちアーチ橋を作る技術を習得しました。その過程で出島に居る外国人と接触したことを咎められ、奉行所を追われてしまいます。そして肥後まで逃れてきたときに石工の集団と出会い、一緒に石造アーチ橋を建造していったのです。その後林七の娘婿である岩永三五郎が中心となり数多くの石橋を長崎、熊本に架けてきました。その功績が認められ、薩摩藩に招聘されて鹿児島でも「甲突川五石橋」を始めとする多くの石橋を残しました。甲突川に架かる5橋のうち2つは1993年の大水害で流失しましたが、残る3橋は石橋記念公園に移設保存されています。林七の孫、橋本勘五郎も石工として多くのアーチ橋の建設に携わりました。そして明治四年、時の政府に招かれ宮内省の土木担当として神田の万世橋を始め、浅草橋、蓬莱橋、江戸橋、京橋等を次々と架けていきました。皇居の二重橋も勘五郎の作と言われていますが定かではありません。三五郎も勘五郎も元の名はそれぞれ「三五郎」「丈八」でありましたが、数々の架橋の功績が認められ、肥後藩より苗字帯刀を許されたのでした。

 次に鉄の橋のお話をします。
 1779年、イギリスのバーミンガム西方のコールブルックデールという所に世界最初の鉄の橋、その名もズバリ、「アイアンブリッジ」が建設されました。建設者はアブラハム・ダービー三世という人で、一世の頃から木炭、石炭に代えてコークスによる鉄鉱石製錬を試み大成功した一族です。この技術が後の産業革命に繋がっていくのです。19世紀に入ってもイギリスの製鉄技術は進化を遂げ、強度の高い錬鉄のおかげでいよいよ鉄製の近代吊り橋が誕生することとなりました。1826年、ウェールズ北部のメナイ海峡に全長417m、世界初の海峡横断吊橋「メナイブリッジ」が完成しました。その後、製鉄技術も錬鉄から鋼(はがね)に進化し、1890年、全長1630mにも及ぶ長大橋がスコットランド・エディンバラ北部のフォース入り江に建設されました。この「フォース鉄道橋」はその名の通り鉄道を渡す橋であり、今も毎日200本の列車が通過する現役の橋であり、技術の素晴らしさと長年にわたる維持管理の努力は称賛に値します。

 後半は、私の社会人人生の大半で携わりました、本州四国連絡橋プロジェクトのお話をしたいと思います。
 昔は瀬戸内海を渡るのに宇高連絡船を始めとする様々なフェリーや連絡船が航行していたのですが、その天候、特に濃霧や強風で船を出せないという状況が多くありました。生活路線であったため、そういった気象条件に左右されない交通手段ができないものか、という思いから立ち上がったプロジェクトでした。実は「瀬戸大橋構想」というのはかなり古く、明治22年に香川県の県会議員である大久保じん之丞が提唱したのが始まりです。大正3年には、今度は徳島県選出の国会議員中川虎之助が鳴門海峡に橋を架けようと、議案を国会に提出しました。そこから数十年経った昭和30年5月、宇高連絡船「紫雲丸」が濃霧の影響で他船と衝突、沈没し死者168人という大事故が起きてしまいました。犠牲者の中には修学旅行中の小中学生が含まれておりました。この大惨事を受け、国がやっと重い腰を上げることとなり、昭和34年建設省が本格的に調査を開始、10年後の昭和44年に、①神戸~徳島ルート、②倉敷の児島~坂出ルート、③尾道~今治ルートの3ルートが候補に上がりました。しかし、どの地域も建設を強く望み激しい誘致合戦となったため、結局3ルート全て着工することとなりました。そして翌昭和45年に本州四国連絡橋公団が設立され、いよいよという段階になった頃にオイルショック到来で計画自体が凍結されてしまいました。しかしその間に公団内部で実験調査が繰り返され、結果的に準備万端で建設を開始することができました。まず最初、昭和50年に尾道から大三島まで橋を架けるべく着工しました。その翌年大鳴門橋着工、53年には瀬戸大橋着工、61年に明石海峡大橋が着工となりました。そして着工から10年、昭和63年に瀬戸大橋が開通。と同時に「しまなみ海道」が着工し、3ルート全てが着工となりました。そして平成10年明石海峡大橋開通、翌年しまなみ海道開通をもって3ルート全て開通となりました。
 3ルートの道路総延長は約173Km、総事業費3兆3300億円、長大橋の数17橋。壮大な国家プロジェクトでした。真ん中の児島坂出ルート、瀬戸大橋には本四備讃線という鉄道も通っています。実は当初神戸鳴門ルートにも鉄道を通す計画がありました。しかも、何と新幹線を通すという計画だったのです。現に大鳴門橋は新幹線用線路を敷設する様に作られました。が、計画が途中で変更となり、明石海峡大橋にはその敷設がされてないので、もはや実現は不可能です。明石海峡大橋は全長4Km,世界最長の吊り橋です。余談ですが、この橋は建設途中で起きた阪神淡路大震災の影響で計画より約1メートル長くなっています。あの震災が橋の完成後だったらと思うと、何とも言えない気持ちですね。
 淡路島を挟んで3つの橋で全長89Kmのルートとなっています。

 次に私が直接かかわった児島坂出ルートです。倉敷市児島から鷲羽山の下をトンネルで通して、下津井瀬戸大橋、櫃石島橋と続き、全部で4つの島を6つの橋で渡しています。このルートには先ほどお話したように唯一鉄道が通っていますが、実は計画では在来線と新幹線両方通すことになっていました。それぞれ上り下りと計4本分の線路のスペースが確保されていましたが、 四国新幹線の計画が変更となり、実現していません。

 最後は一番西のルート、広島の尾道と愛媛県今治市を結ぶ「しまなみ海道」です。瀬戸内海の島々を10もの橋で渡し巡らせています。3ルートの中で唯一歩行者自転車専用道があり、最近はサイクリングロードとして世界的に有名になっています。
 この国家的プロジェクトによって日本の長大橋架設技術が飛躍的に進歩しましたが、その成果は橋梁技術に留まらず、多方面で応用され活躍しています。特にシンガポールにあるリゾートホテル「マリーナ・ベイ・サンズ」の建設においては、それらが如何なく発揮されました。このホテルは、ご存知の方も多いと思いますが、3つの超高層タワーと、その屋上を渡しているサーフボードのような形をした「板」が乗っていて、そこにスカイパークと呼ばれる空中庭園やプールが設置されています。この、橋のような連結建造物は一体どこが作ったのか? 計画段階で国際競争入札となりましたが、あまりに奇抜な設計のためどこも入札せず、我がJFEグループ傘下の会社がシンガポール・ヨンナム社と共同で設計、製作を請け負いました。因みにホテルのあるタワー部分は別です。スカイパークの躯体は連続した多種多様な鉄骨等で構成されており、地元工場で製作された部材を大ブロック化し屋上に吊り上げるなど、これまで培った長大橋の橋梁技術が最大限生かされました。

本日は私が生涯を捧げた「橋」のお話をいたしました。ご清聴誠にありがとうございました。
マチュリティ 108号より転載)

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