第37回ふれあいトークサロン『海の古代史』

2019年3月29日

東アジアの古代文化を考える会幹事 高川 博

講師 高川博氏

講師 高川博氏


一・海の仕組み

 海は生きている。潮汐力は通常満ち潮や引き潮という表現で知られ、海面の流れが規則的に逆方向へと変わり、それに伴って海面が上下する。この現象は主に地球と月の位置により重力方向が変わることによって生じる。また日本列島の周囲には南から日本海流(黒潮)や対馬海流が流れ、北からは千島海流(親潮)が南へ流れる。この海流、が生じる原因は地球の自転と風の流れによって引き起こされる。それに地形の要因が加わり、実際の海の流れは海域ごとに独自の複雑な様相を呈する。
 近年の人工衛星や地上レーダーによる海洋観測という革新的技術の登場によって、地球上のあらゆる海には、直径が何十キロから何百キロという巨大渦の存在が知られるようになってきた。古代の人々、特に海に生業を求める人達にとって、その海の流れは多くの経験値の積み重ねによって理解されていたことは容易に想像できるが、このような巨大渦の存在は眼で見てわかるような渦では無く、全く分からなかったのである。
 世界の海の中でも日本近海は特に荒れ海として知られる。偏西風の吹く中緯度地帯にあり、大陸からの気圧の影響は変化の激しい気候を生み出す。列島周辺を海流が洗い、複雑な地形は潮汐流の方向や流速にも大きな影響を及ぼす。このような厳しい環境の海を相手にしなければならない中で、古代列島の人々はどのように対応してきたのであろうか。

二・アジア、太平洋の海

 日本列島周辺海域の航海を語る前に、近隣に接続する海域であるアジア、太平洋の海を考えて見よう。今から二十万年前に我々の直接の祖先であるホモサピエンス(新人)がアフリカで誕生した。そして七~六万年前にアフリカを出て世界に拡散する。ユーラシア大陸を東へ、北回りを取ったグループもいれば南回りをとった人々もいた。氷期の東南アジア一帯には広大なスンダランドという陸地が出現していた。日本列島にやって来た人々のルーツが何処にあるのか、またどのようなルートを辿ったのか、現在でも多くの諸説あり、という現状である。 その中でスンダランドから海路北上して列島へやって来た、という説がある。詩的旅情あふれる柳田国男の「海上の道」を想起させる説であり、支持者も結構多いように思われる。(筆者は南方ルートそのものを否定はしないものの、海上ルートではなく大陸沿岸北上ルート説をとっている)
 地球の表面積の三分の一、海全体の六十%を占める広大な太平洋には多くの島々が点在する。その西方海域の中部から南部海域はミクロネシア、メラネシア、そして東方海域はポリネシアと呼ばれている。言語学的にオーストロネシア語族と言われる彼らは、東はイースター島、西はインド洋を越えてマダガスカル島まで拡がったという実に壮大なスケールの話である。そして言語学以外に人類学、考古学、民俗学の知見により、そのルーツは何と台湾の原住民だとの有力な説がある。
 注目すべきは、彼らの広大な活動海域は赤道を中心に南北の回帰線までの緯度に収まっていることだ。この海域は一定の貿易風が安定的に吹くという穏やかな海なのである。もちろん、彼らの造船技術や航海技術、そして冒険的精神なども高く評価されなければならない。アウトリガーカヌーやカタマラン(双胴船)、クラブクロウセイルという帆などを発明して、島々や夜空の星を頼りに新天地を求めて広大な海に乗り出したのである。
 
 国立科学博物館では「二万年前の航海再現プロジェクト」として台湾から与那国島への丸木舟による渡海を今年夏に実行すべく準備中で世間の耳目を集めている。もし成功すれば、台湾発南島伝いの南から列島への人類移動を立証できたことになるという訳だ。ご承知のように与那国海峡(与那国島―台湾間)は、百十kmに過ぎないが、この海域には流れの強い黒潮が立ち塞がっている。この流れを突っ切って与那国へ到達することは相当困難なチャレンジであろうことは容易に想像される。考古学的には先島諸島と台湾の関係性の有無は、未だ明確にされてはいないのが現状である。石器や貝斧などの出土品を見ると、むしろフィリピン諸島との関連性が高い。フィリピン東部海域から黒潮に乗って漂着した形を想定するのが妥当ではないか、と考えられる。

三・日本の船と航海の発達史

筏(いかだ)舟

 一万六千年前までの旧石器時代の日本列島は、寒冷化により沿海州―樺太―北海道―本州―四国―九州は一体となり陸地化していた。これを古本州島と呼ぶが、瀬戸内海も陸化していた。列島への渡来ルートは北・南・西からという三方面が考えられるが、九州や本州の石器の状況から見て三万八千年前に列島に最初に人類が足跡を残したのは西ルートであるとされている。西とは朝鮮半島経由であるが、この時代の朝鮮半島と九州の間には海が存在していた。現在対馬海峡(玄界灘)と呼ばれるこの海峡の対馬の南北には四十kmほどの海があったので、何らかの海上運搬手段が必要であった。どのような渡海乗用具があったか、考察する必要がある。この時代の東シナ海や黄海の大部分は陸地化していたが、今日では海に没しており、人骨や遺物などの痕跡を辿ることは不可能である。唯一朝鮮南部の状況では、尖頭器などの狩猟具は見られるものの石斧は無い。従って、丸木舟に必要な大木を切り倒すことは出来ないが、比較的小さな木を束ねて筏を造ることは十分可能であったろう。日本列島に足を踏み入れた最初の集団は筏に乗ってやって来たのではないか、と推察される。

丸木舟

 彼らは列島に到来後、この地にある豊富な森林資源を眼にして、大木を切り倒し、中を彫り窪めて舟を創り出すことに成功した。 三万七千五百年前の静岡県沼津市にある井出丸山遺跡から出土した伊豆諸島・神津島産の黒曜石は、この当時既に往復渡海を行っていた明確な証拠である。そして、それを可能にしたものは世界的にも珍しく、いち早く登場した局部(刃部)磨製石斧である。


準構造船

丸木舟は旧石器時代の後も広く利用されたが、その発展形で、船体の横に舷側板を、前後に竪板を取り付けた準構造船が出現したのは弥生時代後期(紀元一世紀頃)であろうと推測される。木材の整形加工には鉄器が欠かせず、この頃の北部九州では鍛冶技術の発達により多くの各種鉄工具が生み出されるようになっていた。準構造船の登場により、海水の侵入を防ぎ人員や荷物の収容力が大幅に増えた結果、ある程度長距離の航海にも耐え得るようになったのである。三世紀の魏志倭人伝により弥生後期の対馬海峡渡海ルートは分かっているが、弥生時代の九州北部の諸勢力(クニ)も、同様にこのルートを手漕ぎの準構造船で行き交っていたであろう。
古墳時代も四世紀後半になると畿内のヤマト王権は宗像勢力と結んで、宗像―小呂島(おのろしま)―壱岐ルートを開発し常用するようになる。四世紀末には朝鮮半島動乱に介入して倭国は兵を送る。時期を同じくして馬文化も到来する。この時代の船は倭国も朝鮮諸国も準構造船であったと考えられるが、この丸木舟ベースの狭い船に馬を載せることは至難の業である。どのようにして馬を運んだか、は現在でも未解明で大きな謎として残っている。
準構造船でも可能な方法を模索すると、船体を連結した双胴船タイプしかないように思える。
このスタイルにすれば連結部分に柵(馬房)を設けて複数頭収要可能となるし、世話役の馬飼いも十分にケアーできるのではないか、と考えている。
五世紀代の倭の五王時代は、この半島介入の動きの一環で捉えることが出来る。朝鮮半島南部の河川沿いや南西部の島々と沿岸部には続々と多くの倭系古墳が築かれるのだ。


構造船(帆掛け船)

帆掛け船(構造船)はいつ頃から造られたか、という問題は船の遺物が存在しないため考古学的には分からないので、古事記や日本書紀などの記述、あるいは船体埴輪、古墳壁画、板材線刻画などによって推察するしか方法が無い。大きな船に多数の人員や馬を運んだという記述が散見されるのは六世紀になってからであり、やはりこの時期から帆掛け船(構造船)の建造が始まった、と見られる。丸木船ベースの船体から脱却して、船の底を始め全ての船体構造を板材で造った船(構造船)は、拡幅が可能で安定性が向上するために帆の使用も可能となる。風を動力源とする帆の使用は、それまでの手漕ぎの船と違って、長期の外洋渡海も十分視野に入って来る。高句麗との日本海通交、そして遣唐使の東シナ海直行ルートである。六世紀になると朝鮮半島では新羅が台頭する中で、親百済のヤマト王権と親加耶(新羅)の九州磐井勢力が対立し、最終的にはヤマト王権が勝利する。朝鮮半島では金官加耶や大加耶などの加耶諸国が新羅に併合される結果となる。
 七世紀後半には新羅は唐と結んで百済を滅ぼす。遅れて百済復興軍に助勢した倭国は白村江の海戦で唐の水軍に完敗する。
 奈良時代(八世紀)からの遣唐使船は、全て東シナ海直行ルートであったが、片道平均七日間(最短三日、最長三十日)という記録が残されている。しかし帰国の際には冬場の北西風を利用せざるを得ないケースが多く、遭難事故が多発する結果となった。色々多彩な中国大陸文化を我が国にもたらした遣唐使であったが、まさに命がけの難事業だったのである。
                 
マチュリティ109号より転載)

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