毎日の暮しを大切に生きる
2017年8月20日
はじめに
一流企業の第一線で活躍されていたかたの退職後の暮しについて・・・正直、そんな大それたこと、とても私にはお話できませんよ、とは思ったのですが。それでも、長らく雑誌に関わってきた経験と、いま『暮しの手帖』という雑誌で、まさに毎日の暮しについて一から見直すような現場にいる現状を踏まえて、もしかしたらなにかヒントになるようなことがお伝えできるかもしれない、ということで書かせていただくことになりました。
さて、昨年のNHK朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』で話題にもなった『暮しの手帖』です。
戦後まもなく「女の人を幸せにする雑誌をつくりたい」と願う大橋鎭子と、「二度と戦争をしない世の中にするための雑誌」を目指す花森安治が、その思いを併せて創刊した雑誌です。
『暮しの手帖』の編集方針は、毎日の生活を豊かで美しいものにすること。それは来年で創刊70周年を迎える今も、連綿と受け継がれている精神です。
私自身も、40年以上にわたってずっと雑誌の世界で生きてきました。
その中心はいわゆるライフスタイルマガジンと呼ばれる雑誌です。ライフスタイルとは、便利なことばですが、かなりあいまいでもあります。作っている者としては、読者一人一人が自分の暮らし方を選択し、楽しく生きていく、そのお手伝いをするというような感覚だったでしょうか。ファッションから食べ物、住まいや旅に至るまで、扱う情報は実に多岐にわたりました。
雑誌というものは、社会を映す鏡のようなものです。人々がどんなことに興味を持ち、どんな生き方をしていったのか。当然時代とともに価値観も変わっていくし、精神的なものと物質的なものの狭間で欲望すらも揺れ動きます。そんな読者に飽くことなく情報を送り続けるものでした。
そして現在も、暮しの手帖社で雑誌の編集から販売にいたるまでをサポートさせていただく生活を相変わらず続けています。
そんなわけで、私自身のリタイアはもうちょっと先という状況ですが、雑誌的視点に立った、私なりに考えるリタイア後の暮らしとは、というテーマで話をすすめさせていただければと思っております。
『暮しの手帖』の目指したもの
ご存じのかたもいらっしゃるかと思いますが、『暮しの手帖』は一切のコマーシャリズムを排してきた雑誌です。その背後には、なにより「毎日の暮らしが一番大事」という花森安治の思いがあります。それは戦争直後の荒廃の中から、みんなの暮らしをもう一度作り上げていこうという願いでした。
「はげしい風のふく日に、その風のふく方へ、一心に息をつめて歩いてゆくような、お互いに、生きていくのが命がけの明け暮れがつづいています。せめて、その日日にちいさな、かすかな灯をともすことができたら・・・」
『暮しの手帖』創刊号(1947年)のあとがきに、花森はこう記しています。
時代は移り変わって、モノがあふれる現代です。すでに欲しいものがないとまで言われるようになってしまう中で、それではどうやって自分の暮らしを大切にしていけばいいのでしょうか。『暮しの手帖』は創刊から70年後の今も変わることなく、そのテーマを追い続けている雑誌です。
「ケ」としての社会との関わり
さて、リタイアは、言うまでもなく新たな出発でもあります。それまで生きてきた世界を離れ、まったく新しい世界で、新しい生活を一から作っていくという、そんな期待感に満ちた部分もあります。もちろんそれは、これまで作ってきた世界、自分のキャリアを捨てて、そこから隔絶して生きるということではないでしょう。でもまた同時に、いつまでもそこにこだわっていても、新しい生活は始められないのではないかとも思うのです。
そしてそこで役に立つのが、この「毎日の暮らしを大切に生きる」という姿勢なのではないかと思うのです。
企業で働くということは、生きることの軸足をそこに置いていたということでもあると思います。もちろん、それほどの会社至上主義ではないにしても、企業で働くということが原点としてあって、日々の暮らしはその上に積み重ねられていたのではないでしょうか。
リタイアを期に、そこから一旦解放されて、改めてそこに新しい暮しを作っていく場が開けたのではないかと思うのです。
毎日の暮しというのは、ハレとケということで言えば、ケの部分です。でも、企業に勤めていた時代は、そこで働くということがケだったはずです。今度は、それとは違う新しいケを作る、リタイア後に充実した生活を送るために必要なことはもしかしたらそんなことなのかもしれません。
同時にリタイア後も社会性を保っていくことの重要性もあります。
それには生活の領域ということにも大きく関わってきます。
たとえばそれは、大きく変化した生活圏の中で、自宅周辺のテリトリーを離れ、電車に乗ってでかけるというようなことだったりもします。
その昔、橋本治の「革命的半ズボン主義宣言」という本がありました。(河出文庫ですが、たぶん絶版)
休日に半ズボンを履いて、近所に買い物にいくのは誰でもできることです。ご近所でもよく見かけます。でも、そのままの姿で電車に乗って、隣の街まで出かけられますか?という問いかけでした。
いえ、別に半ズボンを履いた休日のお父さんスタイルで繁華街に出ようという話ではありません(橋本治は、それこそが旧来の価値観にとらわれた自己の解放ととらえて、革命的と呼んだのかと思いますが)。極めてプライベートな空間から外に出て、自己と社会の関わり方をどう構築し維持していくかという問題です。
リタイアというのは、決して人生からの引退ではありません。社会性を持ち続け、緊張感のある暮しをするということもまた、充実した生活という観点からはとても重要なことなのではないかと思います。仕事をしていた時とはまた違った意味で、周りからどう見られるかも含めた自己と社会の境界線を意識するということですが、それはだからと言って決して周りを気にして生きるということではありません。
もっと自由であっていいはずです。でも同時に人間は、社会から隔絶して一人で生きていくものでもありません。社会との関わりのほうがメインだった現役時代に比べると、そのバランスが変わるということでしょう。ただ、帰属意識みたいな観点でいえば、これからは自分自身に帰属する、ということなのでしょう。むしろお楽しみはそこから、これから、ということだと思います。
自分の服を自分で選んでいますか
ところでみなさんは、普段から自分でその日着る服を選んでいますか? いやそれ以前に、自分の服を自分で買っていますか?おしゃれ、という言葉に対して、どんなイメージを持っているのでしょうか。
「私たちの日日の暮しを、少しでも明るく、愉しくする、そのことを何よりも大切に考えるのが、ほんとうの『おしゃれ』である」(『スタイルブック』夏1946年)
花森はまた、こんなふうにも語っています。
「どんなに みじめな氣持でゐるときでも つつましい おしゃれ心を失はないでゐよう かなしい明け暮れを過してゐるときこそ きよらかなおしゃれ心に灯を点けよう」(『スタイルブック』夏1946年)
もちろん『暮しの手帖』は、女性を幸せにすることを目的に創刊された雑誌です。おしゃれと言った時には、直接的には女性をその念頭に置いています。でも、人としての幸せを考えれば、それは女も男も同じではないでしょうか。
以前、シルバー世代の消費動向というテーマで、雑誌編集の立場からメーカーや小売のかたを対象にお話をさせていただいたことがあります。100名を超える聴衆のみなさん、ほとんどがミドルエイジ以降の男性でした。
そのとき、私はこう聞いてみました。
「この中で、いつも自分の服は自分で選んでいるというかた、どのくらいいらっしゃいますか?」
すると、ちょっと驚きでしたが、半数近いかたが、ご自分では洋服を選んでいませんでした。
業務的にはそういうトレンドや消費活動に日常的に関わっていらっしゃるのに、自分の暮らしとなると、その範疇から外れてしまうのでしょうか。日々の生活をあまり楽しめていないのかなぁと感じたことを覚えています。
スーツを脱いで
『マチュリティ』読者のみなさんは、現役時代、毎日スーツを着る生活だったと思います。もちろん自分でこだわりを持って、お気に入りのスーツを選んで着ていたかたもいらっしゃると思いますが、その一方では、すべて奥様任せ、毎日用意されたものをそのまま着て会社に行っていたよ、というかたも少なくなかったのではないでしょうか。
花森は、そんなスーツに対して、「どうしてそんなにセビロにしがみつくのか」とかなり過激なカウンターを浴びせています。
「セビロを着て、ネクタイさえしめていたら、一かどの人間に見てもらえた、という時代は、もうすぐ過ぎ去ってゆくだろう。あんなキュークツな服を、まいにち着こんで働いている、正確にいうと、働かされているのは、不幸であるし、理に合わない。(中略)セビロを脱ごう。なにも、セビロだけが男の上着ではない」
1976年、いまから40年も前の記事です。
さらにその約10年前、1967年の「どぶねずみ色の若者たち」という記事では、こんなことも書いていました。
「なにが天下泰平の泰平ムードだ、よく目をひらいて見たまえ、いまは凄まじい乱世ではないか、この中で生きてゆくには、いささかの勇気と、いささかの抵抗精神がいるのだ(中略)まるで、だれかに命令されたように、みんながみんな、同じような服を着ている。それが、どぶねずみ色なのだ」
ちょうどこのころ、ピーコック革命というのが話題になっていた時代です。それは男性の服装にもっと色彩を、というものでしたが、実態は中のワイシャツを白からちょっと水色に変えてみようか、程度のものだったようです。
まあそうはいっても、やはりスーツは便利だし、応用が利くし、安心できるし。ですからみなさん、当たり前に毎日着ていらっしゃったと思います。
ところが。
リタイアすると、もうスーツは着なくなるわけです。
着ないというか、着なくていいというか、着る状況がなくなっていくというか。
極めてプライベートな日常空間で、スーツを着るのは確かに変です。
オンとオフ、という言い方をすると、スーツはやはりオンの服です。でも、リタイアしてそのオンの領域が少なくなると、これまでは「日曜のお父さん」だったオフの領域が、暮しのほとんどを占めるようになりました。じゃあそこでなにを着るんだ? 何を着ればいいんだ、ということになります。
何を着ればいいかって?
そんなもん、何を着てもいいんです、好きなものを着ればいい。
着て楽なものがいいですか? いままで密かに着たいと思っていたものにチャレンジしますか?
ただ、好きなものと言われても、わからない・・・という話もよく聞きます。
これまで自分で服を買ったことがあまりなければ、なにを買えばいいのかもわかりませんよね。
自分で決めればいい
そんなときは、まず買ってみてください。変でもいいじゃないですか。「ちょっとお父さん、やめてよ」って言われるかもしれませんが、いいじゃないですか。自分で選んでみましょう。どうしても自分で選べなかったら、奥さんや子供に選んでもらってもいいですけれど、でも必ずその場に居合わせましょう。もし好みがあったら、主張しましょう。
それこそが、自分の暮らし、だからです。
それは着るものだけじゃありません。なにを食べるか、どこに行くか、なにを見るか。自分が関わって、自分で決めればいいだけです。自由に、自分の思いのまま。
こうやってこのオフの領域をどう生きるか、 というのが毎日の暮しを大切にしていくことそのものなのではないかと思うのです。なにより大切なのは、どうやって楽しむか、です。
ちょっとだけ具体的な話をしますと、とりあえずの私のお勧めは、たとえばスリムなジーンズです。
ありえない!と思われるかもですが。でも今は素材も進歩しているので、履いても楽なスリムフィットタイプのジーンズがたくさん出ています。ちなみに私は、某ファストファッションのミラクルエアースキニーフィットというのを愛用していますが、けっこうこれが気にいっています。
あと、色ですか。スーツの時は、比較的ダークな色合いの上下に、淡い色のシャツ、ネクタイにはけっこういろんな色を持ってくるということで、自然にバランスが取れていたと思います。ところが、カジュアルになったとたん、あいまいな中間色を使う傾向があるようにも思えます。これって、実はすごく難しいんです。
それだったら、細身のジーンズに、白いシャツ。これで十分だと思います。
もちろん、シャツはズボンの中に入れないほうがいいとか、腕はまくってみるとか、細かい「着こなしのアイデア」みたいなものは言ったらキリがありませんが、そんなことはとりあえずどうだっていいじゃないですか。
でも、姿勢や歩き方は大切です。背中丸めて、膝や腰を落とした姿勢では、元気も出ません。背筋を伸ばして、視線を上げて、そして笑顔を絶やさずに。
人生を楽しむこととは、日々の暮しを大切に、ていねいに生きていくことです。
モノや情報に追われるのではなく、他人がどうか、ということではなく、すべてに対して自分が精神的に優位に立つということです。そして、日常のささいなことにも感動し、喜べるようになれば、暮らしの楽しさはどんどん増えていくばかりなのではないでしょうか。
もう一つの関門、地域デビュー
これまで経験してこなかったことのひとつに、地域社会とのかかわりがあるかもしれません。もちろん、数年かけて用意周到に準備をされていたかたもいらっしゃると思いますが、その一方でまったくの出たとこ勝負だったかたもいらっしゃるでしょう。
そこは、いままで生きてきた社会とは別な価値観、違うルールが適用される社会かもしれません。少なくともあなたがこれまで築いてきたキャリアは、そこではあまり意味を持たないかもしれないということを、早い段階で知らされるでしょう。
暮らしのフィールドが変わるということは、違う文化のなかで生きるということです。そこはそれまでの肩書きの通用しない世界です。名刺を交換すれば済む、ということではないのです。
あるいは、あなたの妻がこれまであなたの世界では、○○さんの奥様という固有名詞の希薄な存在であったものが、逆転して、こんどはあなたが○○さんのご主人、という存在になるかもしれません。さらに言えば、△△さんのお父様、だったりとか。
あなたがこれまで、どんな実績を積んでこられたか、知らないかたもいます。
もしかしたら、ちょっとプライド的にエッと思うような展開だってあるかもしれません。
でも、そういう世界のなかで、名前のない存在から、一人の個人として尊重される存在になっていくことで、またそこでの暮らしが充実した楽しいものに変わって行きます。まずそのコミュニティに認知されるところから始める必要もあるのです。その過程ごと楽しめたらいいですね。
それから、地域社会とはまた別の、趣味や習い事、特技といったつながりも楽しめたらいいと思います。こちらの利点は、地域的なしがらみもないので、気が向かなかったらいつでもフェイドアウトできること。楽しくないことは、やらないほうがいいと思います。というか、もうやらなくていいのです。
そうそう、同窓会というのもあります。特に、利害関係などが希薄な中学や高校の同窓会は、出席してみると思わぬ発見があるかもしれません。もうお互いの肩書きなど、比べて気にする必要もないのですから。
相対評価から絶対評価へ
もう比べる必要がない、と書きました。自分の暮しを大切にして、しかもとことん楽しんでいくために一番大切なもの。それはこの自分を含めたすべてのものを評価する価値観の転換ではないかと思うのです。
現役時代の社会では、もしかしたら他との比較でものごとを評価をしていませんでしたか。
もちろん そこは競争社会でした。常に優劣の比較対象とされ、また自らも他との比較の中で、自分はどうだったか、どう評価されたのかを判断していたのではないでしょうか。
さらに、自分の幸せや喜びも、他との比較の上に成立していたのかもしれません。あいつのほうが結果をだしている、あいつのほうが恵まれている、と。
幸せは、比較じゃないはずです。どんなに幸せを感じていても、もっと幸せそうな人間をみたら、その瞬間に相対的に不幸になってしまうのでしょうか? じゃあそれは自分よりも不幸な人を見つければ、幸せになれるということなのでしょうか。
残念ながら、そんな他との比較もまた人生の一面であり、また社会との関わりで避けて通れないものでもあったのでしょう。
でももうそこからは解放されてもいいのではないでしょうか。
新しい世界は、勝ち負けなんかなくていいところのはずです。
あいつの企業年金のほうが多いだことの、あいつの息子のほうが優秀だことの、昨日の飯のほうがうまいとか、この番組のほうがつまらないとか、もう比べなくてもいいじゃありませんか。
自分が楽しいか、楽しくないか。おいしいか、おいしくないか。快か、不快か。
他と比べる相対評価から、自分の中での絶対評価に変えるのです。
日々の暮しを大切にするということは、そんな心の持ちようからも始まることなのではないかと思っています。
最後にちょっとだけ宣伝です
『暮しの手帖』の読者は20代から90代までと幅広いですが、一番の中心は50~60代の女性です。『マチュリティ』の読者でしたら、もしかしたら奥様がお読みになっているかもしれません。あるいは、お母様が昔読んでいらっしゃった、というかたも少なくないのではないでしょうか。
雑誌の内容ですが、現在発売中の2017年初夏88号では、いつものように「休日のピッツァ」や「やきそばはたのしい」など、暮しの一番の基本となる日々の料理の記事が多いのですが、トップページでは「苔と花のテラリウム」という特集を組んでいます。また、モノクロページの『不登校だって大丈夫』という記事も大きな反響を呼ぶなど、広く生活全般から社会問題までをその対象としています。
7/25に発売になる2017年夏 89号では、「春巻きいろいろ」「素材2つのカレーライス」「籐でつくるカゴと小物」など。注目を集める沖縄の「やんばるの森」へも取材に出かけています。
男性がお読みになっても楽しめる記事が満載と自負しております。書店店頭で一度手に取って見ていただけたら幸いです。
【活動区分:マチュリティ特集記事】
← 前の記事「最近の中国金融経済情勢と金融制度改革」
「マチュリティ特集記事」の新着記事
- 2017年09月06日(水) 毎日の暮しを大切に生きる
- 2015年08月20日(木) 最近の中国金融経済情勢と金融制度改革
- 2015年08月20日(木) 家族と自分のための認知症 誰も知らない新治療